こんばんは。南三陸ミサンガプロジェクト・東京本部代表の荒木です。
皆さん、台風は大丈夫でしたか?
紀伊の堰止湖は一部決壊したようですが、幸い人的被害がなかったようでホッとしています。
とはいえ沢山の基盤を失い、これから再起に向けて必死に努力していかなくてはならない方々の苦労を考えると、ただただ頭が下がるばかりです。
こんな言い方をすると顰蹙を買うかもしれませんが、個人的に、今年は災害元年だと思っています。
もしかしたら、この先、まだまだ色んなことが起こるかもしれない(もちろん起こらないに越したことはないのですが)。
その時にそなえて、皆で手を携えて前に進める環境を作っていきたいと思っています。
さて、南三陸ミサンガプロジェクトも来月で発足4ヶ月を迎えます。
人員的にも経済的にも、まだまだ安定には程遠い状況ですが、ゆっくりと確実に成長しつつあります。
必要以上に大きなプロジェクトにする予定はありませんが、出来れば、もっと土台を安定させて、より多くの被災者さん達が手仕事を始められる基盤を作りたいと思っています。
その第一歩として、南三陸ミサンガプロジェクトの団体規約を作成し、ゆうちょ銀行に南三陸ミサンガプロジェクトの口座を作りました!
まだ、キャッシュカードとネットバンクが出来ていないので、全てが整ったら正式に公表させていただきます。
そして、もう一つ。本日(正確には昨日)、赤い羽根の助成金に応募しました。
今まで、経済基盤が私の財布だけだったので、正直、どこまで続けられるのか不安でした。
でも、出来るだけ長く続けたい!そう思って、助成金に応募することにしました。
NPOでもNGOでもない個人レベルのプロジェクトが認められるのか?と、かなり心配している最中ですが、もし認められれば、来年の活動に繋げられると思います。
実は、ここ一ヶ月、助成金を申請するための応募書類の作成、口座開設などで、テンヤワンヤしていました。そのため、皆様への対応が遅れてしまったことを、再度この場で御詫び申し上げます。
それでも応援してくださる皆様。赤い羽根から承認をもらえるよう、一緒に祈ってください!お願いします。
それでは本日はここまで。
朝夕は随分と冷え込んできましたね。お風邪など召さないよう、皆様ご自愛ください。
南三陸の被災者とボランティアが共同企画した「南三陸ミサンガプロジェクト」
被災者達が心を込めて編んだミサンガの紹介ブログです。
*南三陸ミサンガプロジェクトは2017年末をもって解散いたしますが、ネットショップは在庫終了まで継続させていただきます。
また、制作報酬としてミサンガ1本につき400円が被災者に支払われます*
2011年9月28日水曜日
2011年9月20日火曜日
色々とお詫び
こんばんは。南三陸ミサンガプロジェクト・東京本部の荒木です。
まずはお詫びです。
なんのお詫びかっていうと、南三陸ミサンガで諸々の対応が遅くなっていることへのお詫びです。
皆様から、お問合せや御注文のメールを沢山頂いているのに、迅速に対応できなくて大変申し訳ありません。本当にごめんなさい。
実は毎年9月~11月にかけて、私の仕事は最大のピークシーズンを迎えます。
今年も例に漏れず、いえ、震災の影響で延期された現場が秋に集中したため、例年以上にしっちゃかめっちゃかになっております。
何の因果か、お金を稼いで御飯を食べなくては生きていけない体に生まれてしまったので(本当は寝食なくても生きられる体になりたい!植物がうらやましい。)、時には、自分の仕事や生活を優先させてしまうこともあります。本当に申し訳ないと思っています。
許されることならば、気長にお待ちいただけると、大変助かります。
皆様の寛大さに頼って、言い訳ばかりして、すいません。
でも、たとえ遅くなっても、皆様の御支援に必ず応えさせていただくことを、この場を借りてお約束させていただきます。
そして、それに付随して、もう一点お詫びとお願いです。
いつも皆様から沢山のメールを頂いており、とても嬉しい限りです。
しかし私がヘッポコなため、時にメールを見逃していたり、間違った記述をしている場合もあると思われます。
お問合せや御注文に関して、2週間以上、返答が無い場合は、テンパって見逃している可能性が大きいので、恐れ入りますが再度せっついて頂けると幸いです。
また間違った記述や、発送対応が遅すぎる場合は、同様に叱咤頂けると幸いです。
震災発生から半年を過ぎ、今まで色んな方々と接し、色んな方々に助けていただき、時には世の理不尽さや不正義に憤りや悲しみを覚え、でもそれ以上に、人の暖かさにも触れることが出来ました。
特にこの場で頂いた、皆様からの御支援は、南三陸の被災者にとっても私にとっても大きな支えとなっております。本当にありがとうございます。
正直、自分の情けなさに凹む時もしょっちゅうですが、被災地の方々に比べれば、恵まれた環境に生きているのも事実です。今後も駄目な自分と付き合いつつ、被災地の現実と向き合っていこうと思います。
こんな心細い接点では、皆様にも不安を感じさせてしまうだろうと思いますが、今後も被災地の方々への暖かい応援を継続していただけますよう、よろしくお願いいたします。
では、本日の懺悔はここまで。
台風が近付いており、皆様も不安な日々を暮らしていると思います。
(かく言う私も愛知出身で親兄弟友人を心配している最中です。)
くれぐれもお体を大事に。
まずはお詫びです。
なんのお詫びかっていうと、南三陸ミサンガで諸々の対応が遅くなっていることへのお詫びです。
皆様から、お問合せや御注文のメールを沢山頂いているのに、迅速に対応できなくて大変申し訳ありません。本当にごめんなさい。
実は毎年9月~11月にかけて、私の仕事は最大のピークシーズンを迎えます。
今年も例に漏れず、いえ、震災の影響で延期された現場が秋に集中したため、例年以上にしっちゃかめっちゃかになっております。
何の因果か、お金を稼いで御飯を食べなくては生きていけない体に生まれてしまったので(本当は寝食なくても生きられる体になりたい!植物がうらやましい。)、時には、自分の仕事や生活を優先させてしまうこともあります。本当に申し訳ないと思っています。
許されることならば、気長にお待ちいただけると、大変助かります。
皆様の寛大さに頼って、言い訳ばかりして、すいません。
でも、たとえ遅くなっても、皆様の御支援に必ず応えさせていただくことを、この場を借りてお約束させていただきます。
そして、それに付随して、もう一点お詫びとお願いです。
いつも皆様から沢山のメールを頂いており、とても嬉しい限りです。
しかし私がヘッポコなため、時にメールを見逃していたり、間違った記述をしている場合もあると思われます。
お問合せや御注文に関して、2週間以上、返答が無い場合は、テンパって見逃している可能性が大きいので、恐れ入りますが再度せっついて頂けると幸いです。
また間違った記述や、発送対応が遅すぎる場合は、同様に叱咤頂けると幸いです。
震災発生から半年を過ぎ、今まで色んな方々と接し、色んな方々に助けていただき、時には世の理不尽さや不正義に憤りや悲しみを覚え、でもそれ以上に、人の暖かさにも触れることが出来ました。
特にこの場で頂いた、皆様からの御支援は、南三陸の被災者にとっても私にとっても大きな支えとなっております。本当にありがとうございます。
正直、自分の情けなさに凹む時もしょっちゅうですが、被災地の方々に比べれば、恵まれた環境に生きているのも事実です。今後も駄目な自分と付き合いつつ、被災地の現実と向き合っていこうと思います。
こんな心細い接点では、皆様にも不安を感じさせてしまうだろうと思いますが、今後も被災地の方々への暖かい応援を継続していただけますよう、よろしくお願いいたします。
では、本日の懺悔はここまで。
台風が近付いており、皆様も不安な日々を暮らしていると思います。
(かく言う私も愛知出身で親兄弟友人を心配している最中です。)
くれぐれもお体を大事に。
2011年9月14日水曜日
私たちの出会いと南三陸ミサンガプロジェクトが出来るまで
皆様こんばんは。
南三陸ミサンガプロジェクト・東京本部の荒木です。
震災から半年が過ぎましたね。皆様、どんな一日を過ごされたでしょうか?
私は、東京の仕事現場でその時を迎え、静かに黙祷をささげさせていただきました。
(実は仕事現場はおめでたい席なので、そっと心の中で祈りました。)
今日は、私が南三陸ミサンガのスタッフと出会った経緯を書かせていただきます。
今まで、このことを書いて良いものかどうか迷い続け、ずっと躊躇しておりました。
でも半年を越え、一つの区切りとして先に進むため、お知らせしたいと思います。
とても長い文章ですので、お暇なときに読んでいただけると幸いです。
私が東京の友人と一緒に南三陸に入ったのは4月11日(月)の夜7時頃でした。午後5時ごろ、東北自動車道を降り、震災で痛んだ悪路に驚きながら山道を幾つも越えた時、急に暗くなったと思った瞬間、道の端に今まで見たことも無いほどに捻じ曲がったガードレールと、いくつもの潰れた車、何のために使用されていたのか分からない木材や鉄くずが見えてきました。
「ああ、これか」というのが最初の正直な感想でした。
その後、友人と二人沈黙の中、真っ暗な道を進んでいくうち、瓦礫のかさはどんどん増え始め、周りは更に暗さを増し、右を見ても左を見ても瓦礫と潰れかけた建物ばかり。
どこが道なのか、どこに行ったら人がいるのか、頭が混乱して言葉を発するのも怖くなりました。
しかし、そうは言っても震災から1ヶ月たった時ですから、ちゃんと道はありました。
ゆっくりと道を進んでいくうちに、目標としていた志津川小学校に私たちは無事到着しました。
志津川小学校の体育館で一泊した翌日、まず私たちはニーズリサーチの仕事に就きました。
小学校の避難者は100人程度だったため、小学校内のニーズリサーチは一日で終わりました。
その翌日、更なるニーズリサーチのため、当時1000人の被災者と1000人のスタッフを抱えていた南三陸最大の避難所、ベイサイドアリーナに向かいました。
『とにかく飛び込みで、誰かに話を聞くしかない。ベイサイドアリーナで食事を担当している人のところに行けば、沢山の情報を得られるだろう』と考えた私たちは、いの一番に食事配給の責任者に会い、話を聞いてみることにしました。
「ベイサイドアリーナで足りていない物はなんですか?人手が足りていないのはどこですか?」
と責任者に聞いてみたら、答えは即答で返ってきました。
「ここだよ。ここが一番人手が足りない。毎日、入れ替わり立ち代り色んなボランティアさんが入ってきてくれるけど、やっと仕事を覚えたと思ったら帰ってしまう。ボランティアさんには本当に感謝しているけど、実はそれが一番大変なんだよ。」と。
切迫した表情で語る彼の表情に、ニーズリサーチも大事だけど今はここが一番大変なんだ、と感じた私たちは、その場で「じゃあ、私たちが今すぐ手伝います。」と食事配給係として志願しました。(後に、通称「給食係」と呼ばれていることが判明。)
その日から金曜日まで給食係として働いた私たちは、週末一旦、仕事のため東京に帰り、月曜日にまた南三陸に戻ってくる生活をしばらく続け(時に1週ごとになる時もありましたが)、給食係のレギュラーメンバーとして働くようになりました。
そして同じ給食係として働く現地被災者の人達と沢山の時間を共有し、気が付いたら、お互いを助け合う友人となっていました。
それから1ヶ月後、突然ベイサイドアリーナの避難所は解体されることとなりました。致し方ないことなのですが、ベイサイドアリーナは行政の中心として使用されることが決定されたためです。
そして一緒に働いた給食係のメンバー達は、それぞれ各所に点在する2次避難所へと移っていき、皆が一緒に働いたり、他愛も無いおしゃべりをすることさえも難しくなってしまいました。
同時に、ベイサイドアリーナの給食係としての役割を終えた私も、この先、何をしたら良いのだろう?と悩みました。引くことも進むことも出来ませんが、淋しそうにしている友人達を見ていると、もどかしいばかりです。
私はその後一ヶ月、明確な目標を見つけられないまま南三陸に通い続け、何ができるのか?をボンヤリと考え続けました。
5月下旬まで、私は出来たばかりの仮設を回って御用聞きをしてみたり、産直野菜の原価販売をしてみたりしました。そんなふうに思いつくことを色々とやってみるうち、頭に自然と浮かび上がってきたのが『南三陸ミサンガプロジェクト』でした。
6月上旬、私はミサンガの材料を手に南三陸に入りました。そして給食係の友人達に集まってもらい『南三陸ミサンガプロジェクト』のアイデアを提案し、ミサンガの作り方を説明しました。
皆一様に、「うん、やってみる」の一言で、私のアイデアを受け入れてくれました。
それから3ヶ月。要するに現在。給食係=ミサンガ制作スタッフ達は、私にはさっぱり分からないミサンガの編み方を自ら沢山覚えていき、びっくりするほどのスピードとセンスで編んでくれています。
彼女達の芯の強さと根気強さには脱帽するばかりです。
先日お知らせしたとおり、南三陸にも本部が立ち上がり、給食係として集まったスタッフ以外のスタッフも集まり始めています。
このプロジェクトはこんな風に始まり、ちょっとずつ成長している、まだまだ未熟なプロジェクトです。
まだまだ自信が持てない中、皆様から沢山の支援や応援を頂いており、正直、戸惑っている部分もありますが、この先も南三陸の人たちと一緒に粘り強くプロジェクトを続けていくつもりです。
重ね重ね、これまでの御支援に心より感謝いたします。そして出来るならば、今後も我々を見守ってくださることを切に願っております。
私個人の経験を長々と書き連ねまして申し訳ありません。
表現が足りなかったり、ここでは書ききれないこと、書けないことも多々ありますが、震災から半年、被災地で起きている小さな出来事を皆様に少しでも伝えられたなら幸いです。
それでは、本日はここまで。おやすみなさい。
南三陸ミサンガプロジェクト・東京本部の荒木です。
震災から半年が過ぎましたね。皆様、どんな一日を過ごされたでしょうか?
私は、東京の仕事現場でその時を迎え、静かに黙祷をささげさせていただきました。
(実は仕事現場はおめでたい席なので、そっと心の中で祈りました。)
今日は、私が南三陸ミサンガのスタッフと出会った経緯を書かせていただきます。
今まで、このことを書いて良いものかどうか迷い続け、ずっと躊躇しておりました。
でも半年を越え、一つの区切りとして先に進むため、お知らせしたいと思います。
とても長い文章ですので、お暇なときに読んでいただけると幸いです。
私が東京の友人と一緒に南三陸に入ったのは4月11日(月)の夜7時頃でした。午後5時ごろ、東北自動車道を降り、震災で痛んだ悪路に驚きながら山道を幾つも越えた時、急に暗くなったと思った瞬間、道の端に今まで見たことも無いほどに捻じ曲がったガードレールと、いくつもの潰れた車、何のために使用されていたのか分からない木材や鉄くずが見えてきました。
「ああ、これか」というのが最初の正直な感想でした。
その後、友人と二人沈黙の中、真っ暗な道を進んでいくうち、瓦礫のかさはどんどん増え始め、周りは更に暗さを増し、右を見ても左を見ても瓦礫と潰れかけた建物ばかり。
どこが道なのか、どこに行ったら人がいるのか、頭が混乱して言葉を発するのも怖くなりました。
しかし、そうは言っても震災から1ヶ月たった時ですから、ちゃんと道はありました。
ゆっくりと道を進んでいくうちに、目標としていた志津川小学校に私たちは無事到着しました。
志津川小学校の体育館で一泊した翌日、まず私たちはニーズリサーチの仕事に就きました。
小学校の避難者は100人程度だったため、小学校内のニーズリサーチは一日で終わりました。
その翌日、更なるニーズリサーチのため、当時1000人の被災者と1000人のスタッフを抱えていた南三陸最大の避難所、ベイサイドアリーナに向かいました。
『とにかく飛び込みで、誰かに話を聞くしかない。ベイサイドアリーナで食事を担当している人のところに行けば、沢山の情報を得られるだろう』と考えた私たちは、いの一番に食事配給の責任者に会い、話を聞いてみることにしました。
「ベイサイドアリーナで足りていない物はなんですか?人手が足りていないのはどこですか?」
と責任者に聞いてみたら、答えは即答で返ってきました。
「ここだよ。ここが一番人手が足りない。毎日、入れ替わり立ち代り色んなボランティアさんが入ってきてくれるけど、やっと仕事を覚えたと思ったら帰ってしまう。ボランティアさんには本当に感謝しているけど、実はそれが一番大変なんだよ。」と。
切迫した表情で語る彼の表情に、ニーズリサーチも大事だけど今はここが一番大変なんだ、と感じた私たちは、その場で「じゃあ、私たちが今すぐ手伝います。」と食事配給係として志願しました。(後に、通称「給食係」と呼ばれていることが判明。)
その日から金曜日まで給食係として働いた私たちは、週末一旦、仕事のため東京に帰り、月曜日にまた南三陸に戻ってくる生活をしばらく続け(時に1週ごとになる時もありましたが)、給食係のレギュラーメンバーとして働くようになりました。
そして同じ給食係として働く現地被災者の人達と沢山の時間を共有し、気が付いたら、お互いを助け合う友人となっていました。
それから1ヶ月後、突然ベイサイドアリーナの避難所は解体されることとなりました。致し方ないことなのですが、ベイサイドアリーナは行政の中心として使用されることが決定されたためです。
そして一緒に働いた給食係のメンバー達は、それぞれ各所に点在する2次避難所へと移っていき、皆が一緒に働いたり、他愛も無いおしゃべりをすることさえも難しくなってしまいました。
同時に、ベイサイドアリーナの給食係としての役割を終えた私も、この先、何をしたら良いのだろう?と悩みました。引くことも進むことも出来ませんが、淋しそうにしている友人達を見ていると、もどかしいばかりです。
私はその後一ヶ月、明確な目標を見つけられないまま南三陸に通い続け、何ができるのか?をボンヤリと考え続けました。
5月下旬まで、私は出来たばかりの仮設を回って御用聞きをしてみたり、産直野菜の原価販売をしてみたりしました。そんなふうに思いつくことを色々とやってみるうち、頭に自然と浮かび上がってきたのが『南三陸ミサンガプロジェクト』でした。
6月上旬、私はミサンガの材料を手に南三陸に入りました。そして給食係の友人達に集まってもらい『南三陸ミサンガプロジェクト』のアイデアを提案し、ミサンガの作り方を説明しました。
皆一様に、「うん、やってみる」の一言で、私のアイデアを受け入れてくれました。
それから3ヶ月。要するに現在。給食係=ミサンガ制作スタッフ達は、私にはさっぱり分からないミサンガの編み方を自ら沢山覚えていき、びっくりするほどのスピードとセンスで編んでくれています。
彼女達の芯の強さと根気強さには脱帽するばかりです。
先日お知らせしたとおり、南三陸にも本部が立ち上がり、給食係として集まったスタッフ以外のスタッフも集まり始めています。
このプロジェクトはこんな風に始まり、ちょっとずつ成長している、まだまだ未熟なプロジェクトです。
まだまだ自信が持てない中、皆様から沢山の支援や応援を頂いており、正直、戸惑っている部分もありますが、この先も南三陸の人たちと一緒に粘り強くプロジェクトを続けていくつもりです。
重ね重ね、これまでの御支援に心より感謝いたします。そして出来るならば、今後も我々を見守ってくださることを切に願っております。
私個人の経験を長々と書き連ねまして申し訳ありません。
表現が足りなかったり、ここでは書ききれないこと、書けないことも多々ありますが、震災から半年、被災地で起きている小さな出来事を皆様に少しでも伝えられたなら幸いです。
それでは、本日はここまで。おやすみなさい。
2011年9月9日金曜日
皆様へご報告「南三陸本部正式発足」&新作ミサンガ!
こんにちは。南三陸ミサンガプロジェクト・東京本部の荒木です。
先週8月31日(火)~9月2日(金)にかけて、南三陸に行ってきました。
時間があれば、現地報告をしたかったのですが、今回は南三陸本部の立ち上げや、色んな団体の方々にお会いする予定が詰まっており、現地報告ができませんでした。ごめんなさい。
まずはご報告となりますが、この度、無事、南三陸本部が立ち上がりました。
今までミサンガ制作は南三陸で行い、事務、販売、会計作業などのプロジェクト運営は東京本部と役割を分けてきましたが、今後は南三陸本部でもプロジェクトの運営を進めていただけることとなりました。
今後は東京本部がキャパオーバーになっても、南三陸の方々が率先して動いてくださるので、長い活動としての下地が整いつつあります。これも一重に皆様の応援と南三陸の方々の根強い努力のおかげです。皆さま、本当にありがとう御座います。
ネット販売やブログに関しては、荒木が引き続き担当させていただきますので、今後ともよろしくお願いいたします。
さて、この度の新作ミサンガは約300本!
皆、めきめき上達して、色んな編み方に挑戦したり、1ヶ月で100本作る方もいたり、楽しみながら手仕事を続けてくれています。
そしてメンバーの中に常勤仕事が決まったメンバーもいます!
今後はミサンガ運営のサポートメンバーとして活躍してくださる予定です。
いつの日かメンバー全員が南三陸で正式な仕事を持てる日が来るまで、そして、その日を南三陸ミサンガプロジェクトのゴールとして、これからも地道に頑張っていきます!
津波被害を逃れたお宅でミサンガメンバーの打ち合わせ |
ところで、唯一住む場所が決まっていなかった南三陸の友人が、先週月曜日にようやく仮設に入ることが出来ました。
彼はミサンガプロジェクトのメンバーではありませんが、震災以来、毎日避難所で被災者たちの食事の世話や物資の仕分けを続けており、同時にいつも私たちを影で支えてくれた、ミサンガメンバーにとって恩師とも言うべき友人です。
毎日、人のために活動して自分のことをほったらかしにし続けた結果、南三陸でも異例の8月末の入居となりました。
ずっと心配していた友人が、ようやく自分の場所を作れて、本当に嬉しかったです。
ミサンガメンバーの仮設住宅(個人特定を避けるため加工してあります) |
さて、この場を借りて、今回の新作ミサンガの一部をご紹介したいと思います。
もし、これが欲しい!という方がいらっしゃったら、ブログ右にあるネット販売の手引きを参考に商品番号を添えて、メールで御連絡くださいね。
ご希望の商品にチャームと制作者のメッセージを添えて、お送りします。
新作ミサンガ1,2,3(左から) |
新作ミサンガ4,5(左から) |
新作ミサンガ6,7(左から) |
新作ミサンガ8,9,10(左から) |
新作ミサンガ11,12,13(左から) |
新作ミサンガ14,15,16(左から) |
新作ミサンガ17,18,19(左から) |
新作ミサンガ20,21,22(左から) |
新作ミサンガ23,24,25(左から) |
明後日は震災からちょうど半年。皆様、色んな思いを胸に抱いて迎える大事な日になると思います。被災者ではない私が言うのは、とてもおこがましいのですが、自分にとっても、9月11日は特別な日です。
皆様にとって、この日がひとつの区切りとなり、未来への架け橋となるよう願っております。
それでは本日はここまで。まだまだ残暑が続きそうなので、くれぐれもお体に気をつけて!
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