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2011年9月14日水曜日

私たちの出会いと南三陸ミサンガプロジェクトが出来るまで

皆様こんばんは。
南三陸ミサンガプロジェクト・東京本部の荒木です。

震災から半年が過ぎましたね。皆様、どんな一日を過ごされたでしょうか?
私は、東京の仕事現場でその時を迎え、静かに黙祷をささげさせていただきました。
(実は仕事現場はおめでたい席なので、そっと心の中で祈りました。)

今日は、私が南三陸ミサンガのスタッフと出会った経緯を書かせていただきます。
今まで、このことを書いて良いものかどうか迷い続け、ずっと躊躇しておりました。
でも半年を越え、一つの区切りとして先に進むため、お知らせしたいと思います。
とても長い文章ですので、お暇なときに読んでいただけると幸いです。

私が東京の友人と一緒に南三陸に入ったのは4月11日(月)の夜7時頃でした。午後5時ごろ、東北自動車道を降り、震災で痛んだ悪路に驚きながら山道を幾つも越えた時、急に暗くなったと思った瞬間、道の端に今まで見たことも無いほどに捻じ曲がったガードレールと、いくつもの潰れた車、何のために使用されていたのか分からない木材や鉄くずが見えてきました。
「ああ、これか」というのが最初の正直な感想でした。
その後、友人と二人沈黙の中、真っ暗な道を進んでいくうち、瓦礫のかさはどんどん増え始め、周りは更に暗さを増し、右を見ても左を見ても瓦礫と潰れかけた建物ばかり。
どこが道なのか、どこに行ったら人がいるのか、頭が混乱して言葉を発するのも怖くなりました。
しかし、そうは言っても震災から1ヶ月たった時ですから、ちゃんと道はありました。
ゆっくりと道を進んでいくうちに、目標としていた志津川小学校に私たちは無事到着しました。

志津川小学校の体育館で一泊した翌日、まず私たちはニーズリサーチの仕事に就きました。
小学校の避難者は100人程度だったため、小学校内のニーズリサーチは一日で終わりました。
その翌日、更なるニーズリサーチのため、当時1000人の被災者と1000人のスタッフを抱えていた南三陸最大の避難所、ベイサイドアリーナに向かいました。
『とにかく飛び込みで、誰かに話を聞くしかない。ベイサイドアリーナで食事を担当している人のところに行けば、沢山の情報を得られるだろう』と考えた私たちは、いの一番に食事配給の責任者に会い、話を聞いてみることにしました。
「ベイサイドアリーナで足りていない物はなんですか?人手が足りていないのはどこですか?」
と責任者に聞いてみたら、答えは即答で返ってきました。
「ここだよ。ここが一番人手が足りない。毎日、入れ替わり立ち代り色んなボランティアさんが入ってきてくれるけど、やっと仕事を覚えたと思ったら帰ってしまう。ボランティアさんには本当に感謝しているけど、実はそれが一番大変なんだよ。」と。
切迫した表情で語る彼の表情に、ニーズリサーチも大事だけど今はここが一番大変なんだ、と感じた私たちは、その場で「じゃあ、私たちが今すぐ手伝います。」と食事配給係として志願しました。(後に、通称「給食係」と呼ばれていることが判明。)

その日から金曜日まで給食係として働いた私たちは、週末一旦、仕事のため東京に帰り、月曜日にまた南三陸に戻ってくる生活をしばらく続け(時に1週ごとになる時もありましたが)、給食係のレギュラーメンバーとして働くようになりました。
そして同じ給食係として働く現地被災者の人達と沢山の時間を共有し、気が付いたら、お互いを助け合う友人となっていました。

それから1ヶ月後、突然ベイサイドアリーナの避難所は解体されることとなりました。致し方ないことなのですが、ベイサイドアリーナは行政の中心として使用されることが決定されたためです。
そして一緒に働いた給食係のメンバー達は、それぞれ各所に点在する2次避難所へと移っていき、皆が一緒に働いたり、他愛も無いおしゃべりをすることさえも難しくなってしまいました。
同時に、ベイサイドアリーナの給食係としての役割を終えた私も、この先、何をしたら良いのだろう?と悩みました。引くことも進むことも出来ませんが、淋しそうにしている友人達を見ていると、もどかしいばかりです。
私はその後一ヶ月、明確な目標を見つけられないまま南三陸に通い続け、何ができるのか?をボンヤリと考え続けました。

5月下旬まで、私は出来たばかりの仮設を回って御用聞きをしてみたり、産直野菜の原価販売をしてみたりしました。そんなふうに思いつくことを色々とやってみるうち、頭に自然と浮かび上がってきたのが『南三陸ミサンガプロジェクト』でした。

6月上旬、私はミサンガの材料を手に南三陸に入りました。そして給食係の友人達に集まってもらい『南三陸ミサンガプロジェクト』のアイデアを提案し、ミサンガの作り方を説明しました。
皆一様に、「うん、やってみる」の一言で、私のアイデアを受け入れてくれました。

それから3ヶ月。要するに現在。給食係=ミサンガ制作スタッフ達は、私にはさっぱり分からないミサンガの編み方を自ら沢山覚えていき、びっくりするほどのスピードとセンスで編んでくれています。
彼女達の芯の強さと根気強さには脱帽するばかりです。
先日お知らせしたとおり、南三陸にも本部が立ち上がり、給食係として集まったスタッフ以外のスタッフも集まり始めています。
このプロジェクトはこんな風に始まり、ちょっとずつ成長している、まだまだ未熟なプロジェクトです。
まだまだ自信が持てない中、皆様から沢山の支援や応援を頂いており、正直、戸惑っている部分もありますが、この先も南三陸の人たちと一緒に粘り強くプロジェクトを続けていくつもりです。
重ね重ね、これまでの御支援に心より感謝いたします。そして出来るならば、今後も我々を見守ってくださることを切に願っております。

私個人の経験を長々と書き連ねまして申し訳ありません。
表現が足りなかったり、ここでは書ききれないこと、書けないことも多々ありますが、震災から半年、被災地で起きている小さな出来事を皆様に少しでも伝えられたなら幸いです。

それでは、本日はここまで。おやすみなさい。


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